喉にひっかかる小骨のように、気になると離れない。忘れたと思ったら思い出す。ワールドカップバレーが清算しきれていなくて、日々入ってくる生き方に言及した表現が頭を巡って、結局自分はこれからどうすんの?が、一歩踏み出せなくて、文字通りの足踏み。
本当の意味で、周囲に流されない強い芯みたいなものを構築したくて、当然影響をされつつ、咀嚼した上での自分自身を、自立させなきゃ。今までだってそうだったはずだけど、そういう自分の中の気高さを、他人が言葉にしていたのを耳にして、あ、間違ってないんだなと少しばかり安心したのもある。
同時に、大学の頃の極めてリベラルというか、ある意味奔放だった感覚で、分別していくことがそこまで稚拙なわけじゃないなとも思ったし、歳を重ねる度に言わなくなったことや、それが分別だとしていた諸々が、自分自身を小さくしていくような実感は確かにしていて、そこからまた戻るというか、もっとストレートに考えていこうと、最近思う。
責任はいつも自分にある。そこから逃げないことだけ出来れば、何があろうとなんてことない。
昔は散々口にしていたような言葉が、全力とか、懸命にとか、今になって清々しく聞こえる時点でもはやおかしな話なんだけど、結局そういう泥臭い部分で生きてきたわけで、そこから脱却する必要性も、魅力も、今あるわけじゃない。
濯さんが、追い込まれた時こそ自答していた”今だ”の言葉に、湧き上がるモノを隠しきれなかったあの時の感覚を、忘れてしまった時が最後。次があるかなんてわからない。し、次があろうとなかろうと、”今ここ”にかけて生きることを、もう一度。
たぶんそれが次の一歩で、具体的なものなどなかろうと、僕にはそれで充分。
少しスッキリして、またこれから。



